8月2日 (火)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第213弾!  2011.8.2(火)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第213弾!  2011.8.2(火)   たかやん

遂に
3億円が当たった!「買っておくもんだねえ・・・」「音の静かな洗濯機を買おう!」「ナビ付きの車買おう!」「グランドピアノも買おう!」「我が家の隣にできる家を買おう。」「ナイター照明付きのテニスコートもいいねえ・・」「それは無理でしょ・・」「50mの温水プールはどう?」「それも無理じゃん」親子3人で大喜びしていたら・・・目が覚めた。ああ物欲の塊の私・・・とほほ。でも、ちょっと幸せだったかも・・・だはははは。

安全神話に重なる兄の死  千葉県 高邑 猛
軍国少年だった戦時中の自分に重ね合わせて朝の連続ドラマ「おひさま」を見ています。とりわけ主人公陽子の兄、春樹の戦死、次兄茂樹と夫和成の復員場面は涙しました。
私の長兄は地獄といわれたビルマ戦線から身一つで復員してきました。次兄は少年飛行兵で、フィリピンで戦死。1947年4月、遺骨が返ってきた日のこと・・・白布に覆われた箱がカタコトと音を立てて中から出てきた小さな白木の位牌。黙って見つめる母。むなしい兄の復員を確認した日のことは、忘れることがありません。国民に「神国日本の不敗」を信じ込ませ、無謀な戦争に駆り立てた、当時のマスコミの罪は重いと思っています。そして今、歴代自民党政権がふりまいてきた「原発安全神話」です。福島原発事故や九電の「やらせメール」で、そのうそが暴露されていますが、なお財界を中心とした推進勢力の動きは要注意です。もうだまされてはならないと思う昨今です。

* 叔父の文が新聞に掲載された。長兄とは僕の父さん、新太郎のことであり、次兄とは父さんの弟の登叔父さんのことである。僕らは小さい頃から“登おじさん”と呼んでいたが、勿論、一度も会ったことのない叔父さんだった。運動神経が抜群で、今でいうならイケメンで・・・そういう若者が10代で沢山死んでいったのが、あの戦争だったのだ。

教師を目指す人へのメッセージ21 最初が肝腎
「最初が肝腎」とよくいう。確かにその通りだ。しかしその肝腎を間違えてしまっている教師達がたくさんいる。「1年生の1番最初にびしっとルールをたたきこまないと。」と主張する教師達のことである。「チャイム着席」「ジャージでの清掃」「中学生らしい頭髪」「中学生らしい服装」とにかく最初にビシッと教え込まなければ、あとが大変である。と彼らはいう。答えはNOである。「1年生の1番最初にかわいがること。」それが大切なのだ。僕は21年間担任をやってきたが、ただの一度も1年生で担任をした子供達から暴力を振るわれたことはない。テニス部の子達と戦ったことはある。接し方が違ったのである。僕はクラスの子ども達は徹底的に可愛がった。小学校でどんなに優秀な子であっても、どんなに悪いことをしてきた子であっても関係なく一日目で「名前」を呼んで握手をしてきた。掃除も一緒にやったし、家庭訪問にはその日の子供達全員を車に乗せて、ワイワイガヤガヤ話をしながら行ったものだ。給食は毎日くじを引いて、ジャンケンで片付けをして、昼休みは一緒にサッカーをやる。毎日帰りの学活ではギターを弾いて一緒に歌を歌う。そしてテスト前には「朝勉」で一緒に勉強し、テストも一緒に受けた。勿論怒ることもある。泣かすこともある。だけど、1年の終わりにクラスが解散する時にはみんなで泣くのだ。
そういう子供達の中に徹という子がいた。中2、中3は僕のクラスから離れ、接触する機会が少なくなった子である。その子が3年生になり、いわゆるワルになった。身長、体重も僕をはるかに越え担任の教師に対してもひどい態度を取り、弱い生徒に対するイジメも始まった。そういう時に僕は彼とぶつかった。何が原因かは覚えていないが、昇降口で僕は彼の胸ぐらをつかんでこういった。『徹!なにやってんだよ。お前は!』「…・・」彼は泣きはじめた。僕より背もでかいし、力もある中3がまるで中1の子どものように泣くのを見て、僕は彼が愛しくてしょうがなかった。そして自分のやり方が間違っていなかったと思った。子ども達の心は僕と出会った時のままだったのだ。彼はそれから落ち着いた生徒になっていった。一方でテニス部の子供達とは違う接し方をしていた。僕が部活動で子どもを「名前」で呼ぶようになったのは後半になってからで、それまでは全部「苗字」で呼んでいた。僕に対しては全て敬語を使わせていたし、接し方もほとんどが命令調で暴力的だったのだ。要するに子供達は全く違う僕を両面から見ていたことになる。ただキツイトレーニングは一緒にやったし、遊ぶ時はあそんだから最後はやっぱり泣けた訳だ。でも僕に対して力で向かってくる子は思い返すとみんなテニス部の子供達だった。勿論素手で一対一で戦ったし、気合で一度も負けなかったし、今ではみんな笑い話なんだけれど、「最初が肝腎」なんだとやっぱり思うのだ。怒らなくてはいけない時はある。そこを逃してはいけない。怒るには気合が必要だ。ネチネチだらだら怒ってはいけない。怒ったら、さっぱり忘れてしまうぐらいの技量がなくてはいけない。それができないのだったら、怒らない方がうまく行くかもしれない。昔は学校に一人や二人、怒るのが名人という先生がいた。今はあまり見当たらない。だったら家で鏡の前で練習することだ。気合を込めてイメージトレーニングをすることだ。笑顔も怒る顔も練習で作れるものなのだ。

痛っ!
朝、やはり痛みが走る。まずいなあ・・・と、思う。家族を守る為には、まだまだ倒れる訳にはいかない。今日は猛おじちゃんが検査入院した。この間の電話で「朋矢、ちゃんと病院に行くんだぞ!」と、叱られた。どうやら僕の日記を読んで、左胸が痛いことを知っていたのだ。若かった(20代)おじちゃんがいつの間にか80歳になった。そんな日がいつか来ることはわかっていたのだが・・・。時の流れの速さを感じるのである。小さい頃の僕は、おじちゃんのベッドで御伽噺を聞くのが大好きだった。僕を心から心配し、そして叱ってくれる人がどんどんいなくなった今。おじちゃんにはまだまだ元気でいてもらわないと困るのである。がんばれ!猛おじちゃん!僕もがんばるよ。
今日の写真1・2
我が母校、新宿区立西戸山中学校は「新宿西戸山中学校」にリニューアルされました。校歌も新しくなったということで、ちょっと寂しい気もしますが・・・でも廃校よりは大分ましです。北門の前の都営住宅はこんな高層ビルになっていました。向こうに見えるのは小学校です。

今日の写真3
さわむら屋は残っていました。ちょっと感激です。中学校の周りで残っていたのは、直樹の実家の「佐野薬局」と「沢村屋」くらいだったからです。僕が新宿に住んでいたのは13歳まで・・中一の時、中野に越して・・・中三まで西戸山に電車通学をしていました。中野に越してなければ、22群の戸山高校か青山高校、21群の新宿高校か駒場高校に行ってましたから・・・多分、教師にはなってなかったと思います。あの引越しが運命の分かれ道だったのでしょう。今よりいい人生だった可能性もありますが、今より幸せな人生はないような気もします。石神井時代は楽しかったし、北大時代も楽しかった・・・何より学校時代は超楽しかったですね。そして、今が一番楽しい訳で・・・、それだけいい出会い、いい縁があったということです。やっぱり僕は幸せだなあと思うのです。

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